昭和54年05月15日 朝の御理解
御理解 第26節
「信心に連れはいらぬ。ひとり信心せよ。信心に連れがいれば、死ぬるにも連れがいろうが。みな、逃げておるぞ。日に日に生きるが信心なり。」
死ぬるにも連れがいろうが、とまぁ極端な言葉で仰っておられますけれども、これはやはり人間どしなげきと申しますかね。この辺の言葉で言うと何かこの連れを作ろうとする。それこそ死ぬるにも無理心中なんかと言うのは、やはり連れをそうまぁ言うなら心の現れだろうと思います。ここん所はある意味で軽い表現で教えておられるんですけれども、やっぱ一番大事な所はね、日に日に生きるが信心なりで結んでおられます。
だからその、日に日に生きるが信心と言う、その信心そのものが生きると言う形に、現れて来なければならない。ただ只生きておると言う事ではない。言うならば信心生活である。日に日に生きるが信心とね、いかに信心をもって間違いなく生きるかと、その事自体が信心だとね。ですからま合楽的に言うたらどういう事になりますでしょうか。如何に合楽理念を実践、実験しながら、そして実証しながら生きると言う事が、信心だと言う事になるですね。
昨日の高松和子先生ところの御主人の霊祭がございましたが、ちょうどもう二十五年になられるんです。それで皆兄弟皆集まって、本当に真心こもった霊祭でしたが、ちょうど終わらせて頂いたところへ、大変遠方からお参りをして見えられた。その方も遠方からお参りをしておろけれども、実は昨日も十三日会に参っておられる。で今日もまたお導きをする方が二人あったから、もうそれこそ遠い近いは言うてはおれんと言う事でしょうね。お参りをして見えられた。
もう立派な本当にあのう、お徳を受けられる様な感じのタイプの、まだ若い若いと言うても、もう三十か四十に手が届かれる様な方かもしれませんけれども。非常にこのう霊徳面がすぐれられて、もうどこからか、ずうっと声が聞こえてきたり、いろいろ指図をしたり、それで合楽の事を聞かれてね、本当にあのうま正しい信心を聞きたい。実際にそう言う信心お話しを聞いて、合楽の信心が本当に素晴らしいと分かったら、その合楽の信心を頂きたい。
どんなに考えてもその附に落ちない、合点が行かない事が沢山出て来る。それでもいろいろ頂くからそれを人に伝える。伝えると人までが迷惑する。と言った様な事が続いておる。とこう言うのです。それで私暫くお話しさせて頂いたら、もうこのままでもここに修行させて頂きたいと言う様に、ここの先生方に話して行かれたそうですけれども、兎に角まちっとそれこそ合楽理念の勉強をして、それからでも遅くないですよ。と言うてまぁ帰したと昨日言っておりましたがね。
日に日に生きるが信心なりと言うてならそう言う、例えばどんなに考えても私に言わせるなら、合楽以外の信心では、日に日に生きるが信心だと言う事は言えないと思うのです。もう私が言うならば他の宗教の教えを持って生きると言う事は、言うならどこか欠けておる。どこか行き詰まりがあると、言う様な私の生き方から言うと、もう本当に合楽理念を以て生きる生き方こそ、日に日に生きるが信心と言う事が言えるのじゃないかと言うふうに思うし。また皆さんもそう思うて頂きたいです。
そのためにはやはり合楽理念の実験実証。どうぞ今日も一日合楽理念の実験者にならせてください。そして表わさせて下さい。実証さして下さい。こう言う願いが持たれなければならん。と言う事になるのじゃないでしょうかね。昨日霊祭の時に神様に、昨日の霊祭の事をお願いさせて頂いとりましたら頂ますのが、私は松露と言うのを見た事がないですから、実物は知らんのですけれども、松露と言う小さいあれは松林の浜なんかに出来るんだそうですね。松の露とま大変高級な野菜と言う事になりましょうかね。
何だろうかと思うたら『唐津の松露饅頭』を頂いた。ははぁこれが松露と言うんだな、と思うて、ますぐ直感しました事は、成程松の下露と言う事を感じました。ここでは松の信心と言われますね。九州の信心は殆どが松の下露でありますね。そこで暫くではありましたけれども、椛目の神愛会時代に総代もなさった、本当にあの合楽に縁を頂いておる。しかも御用の一つも頂いておる、と言った様な事は魂の世界に入って、非常にその何と言うですかね、幅が利く訳です。
私は合楽教会の信者です。と言うてあちらへ行って、あぁそうですかと、何か特別扱いをされる様な感じがするですね。何時の霊祭の時もそれを感じますね。だから合楽教会がいよいよ力を頂いて、いよいよ立派になればなるほど、御信者の皆さんとても、やはり合楽に縁を頂いておると、言う事だけでおかげが頂けると言う事に成る訳ですけれども。私はその松露と言う字をね、漢字で松の露とこう書いてあるでしょ。
松と言う字は言うならば木偏に公と書いてある。まあ言うならばどう言う事かと言うと、んなら高松和子先生が親子でお道に教師にお取り立て頂いておると。そして人が助かる事のために自分が精進する。人が助かる事のための言うなら御用に立とうという一念を、ま親子で燃やしておる。そう言うような心を公に使うと言う事じゃないでしょうかんね。松の露、総代ともなったらなら日々、皆さんがお聞きになっておられる様にまず、第一に合楽教会大発展の、御神願が御成就に相成る様にと言う。
自分一家の事じゃなくて、教会全体の事が祈られる。もうこれは既に自分以外の助かりを、願っておる精神ですよね。そう言う信心にお育てを頂く。それにはどういう事になるかと言うと、露と言う字を分けますと、雨の路と書いてある。雨冠、雨そして下が路と言う字。露と言う字ですね。本当に神愛を悟らせてもらう。本当に分からせて貰う。文男先生が十三日会の時に言っておりました様に、例えんなら病気をしてもです。折角病気をするなら楽しい、有り難い病気でなけりゃいけないよと。
しかも二ケ月、三ケ月とそれが続いた。御神意あっての事ですから、まぁ言うならば有り難うございますと言う心。言うならば雨の路だからと言うて、そこにしるしいとかね、困るとかと言うのではなくてです。おかげで傘もあるおかげで長靴も覆いとる。雨の路ではあるけれども、雨の中もまた楽しい。そう言う言うならば心の状態を開けよと言う事になんです。どうぞお天気になります様にとお天気ばっかり。
ほんに雨降りは困るですのうや。じゃなくてね道々でもおかげを頂いて、傘のおかげを頂いて、おかげで長靴のおかげで足もよごさんで済みます。と言うならばです雨の路もまた楽しい。と言う心の状態を開けよそれが信心なんだと。例えば分かってからなら、実際雨の日はしるしい時もあろう。風ども吹いたら傘も役に立たん時もありましょう。けれどもそれが神愛だと分からせて頂くところから、なら結構な修行させて頂いて有り難うがざいますと言う事にもなる。
そう言う一つの信心の基本的なものがね分からせて貰い。それを日々の生活の上に表わしていく。日々の生活の上にそれを頂いていく稽古をさせて頂く。そう言う私は生き方が。日に日に生きると言う事が信心だと言う事になるのじゃないでしょうか。日に日に生きると言うのはもう絶対間違いのない、私はそう言う生き方をするの事が、だから私はもう合楽以外の生き方をどんなに、ナマンダブツを言うても、有り難いと言うてもですよ本当は、本当の教祖がここで仰っておられる。
日に日に生きるが信心と言う事には、少しそれるような気がいたします。なら合楽に御縁を頂いとるからと言うてもです。ならそういう私が今申しました松露。雨に露と言う様な内容を、本当に分からせてもろうて、そして日に日に生活の上にそれを頂き表わしていく。だからどうでも願いをしてです、今日一日合楽理念の実験者たらしめて下さい。そして実証者としてのおかげを頂かせて下さい。
そう言う願いが先ずなされなきゃいけない。 そしてそう言う生き方をです、私の生活の上に一つ松露もそう言う生き方になったら、それこそ松露の様な素晴らしいね、おかげが頂けると思います。それこそ松の下露そう言うおかげを頂かせて貰える日々。今日私は日に日に生きるが信心なりとは、これは合楽の信奉者でなからなければ、本当の日に日に生きると言う味わいと言うものが。分らんのじゃなかろうかとさえ思わせて頂きました。 どうぞ。